日本三所之一 福満虚空藏菩薩の由来
当山「柳津虚空藏尊絵巻縁起」天正十二年(1584)によると、今から凡そ千二百年有余年の昔、大同二年(807年)法相宗徳一大師によって開創されたと伝えられる。当山御本尊福満虚空藏菩薩は、弘法大師の御作と伝えられ、日本三所の随一として霊験の顕著なこと他に比なしと云われている。遠く延暦二十三年(804)弘法大師は三十一才にして唐に渡り、青龍寺慧可阿闍梨に謁し修行を積まれ帰国に際し、三鈷と霊木を伝授された。途中、日本に於ける仏法興隆有縁の霊地を求めんと祈祷せられ、三鈷と霊木を海に投ぜられた。三鈷は不思議にも紀伊国(和歌山)に流れ着き、真言宗総本山高野山金剛峯寺が建立された。霊木は、少し遅れて紀伊国那智之浦に漂着し、帰国後の巡錫中、それを見つけられた大師は、霊木を三断し再度海に投ぜられた。後日、元木は、安房国天津浦に流れ着き、その霊木で刻まれたのが、能満虚空藏菩薩である。中の木は、常陸国村松に至り、大満虚空藏菩薩が刻まれた。末木は、越後の海より只見川を溯り柳津に至った。土地の漁翁が、これを拾い上げ斧で切ろうとしたところ突然大音響を発したので漁翁は驚き、その木を割るのをやめた。その夜、夢に白髪の老人が現われ「その流木は天竺よりの霊木なり、大師巡錫ある時はそれを捧ぐべし」と告げた。その頃大師は、磐城・岩代・会津を巡錫されており、只見川沿いを歩かれていた時、漁翁の話しを耳にされ、霊木とめぐり逢󠄀った。大師は非常に喜び、大慈大悲の願いをこめて、尊像を刻まれた。これが、福満虚空藏菩薩であると伝えられる。
能満虚空藏菩薩 千光山 清澄寺 (千葉県鴨川市清澄)
大満虚空藏菩薩 村松山 日髙寺 (茨城県那珂郡東海村)
福満虚空藏菩薩 霊巌山 圓藏寺 (福島県河沼郡柳津町)
以上が、日本三所の虚空藏菩薩といわれる大略である。
能満虚空藏菩薩 千光山 清澄寺 (千葉県鴨川市清澄)
大満虚空藏菩薩 村松山 日髙寺 (茨城県那珂郡東海村)
福満虚空藏菩薩 霊巌山 圓藏寺 (福島県河沼郡柳津町)
以上が、日本三所の虚空藏菩薩といわれる大略である。
虚空藏菩薩の信仰
虚空藏菩薩は、虚空が広大無辺の功徳を包み無限に「智慧・慈悲」をそなえ、「如何なる人でも福徳円満が授かる因縁を有している」と云われる。菩薩を念じ、報恩感謝(生かされている自分に感謝する)の合掌をし、一心に陀羅尼を唱え、常日頃より功徳を積む(神仏から幸福が報いられるような善行を積む)ことにより、菩薩は三十五の姿に身をかえて、我々の世界に現われ、悩み苦しみの願い事に応じ、あらゆる方便を用いて、教え導き衆生(生けとして生けるすべて)を済度する。それにより、心に安らぎ(
無怖畏 )のある真の幸福が授かるのです。御利益とは、単なる「タナからボタモチ」式にあるものではない。「幸福は求めて得られるものではない。機嫌よく暮らして福を招くもととする外 ない。災は避けられないから、他人を害することなく、災を遠ざかる法とする外はない」この心の用 らきを「智慧」という頭のよしあしばかりをいうのではない。
「御利益」とは、求めて得られるものではなく、己れの信心により、「自分は生かされている」「日々無事息災に暮らさせていただける」ことが御利益と願える心こそ、尊いのです。常に善根功徳に心掛け、泉の水が自然に湧き出づるが如く、幸福がついて廻るよう精進努力あらんことを。「積善の家には必ず余慶あり」
尚、虚空藏菩薩は、丑歳・寅歳生れの守り本尊と云われますが、この歳生れでないと御利益がないとよく聞きます。仏様に差別はありません。何歳生れでも平等であります。菩薩をおまいりする時は、報恩感謝(生かされている自分に感謝する)をし、「般若心経」「虚空藏菩薩陀羅尼経呪文」を唱え、普回向(めぐらす)をお唱え下さい。
普回向
願くばこの功徳を以て普 く一切に及し、我らと衆生と皆共に、仏道を成ぜんことを。十方三世一切の諸仏諸尊菩薩摩訶薩。摩訶般若波羅蜜。
「御利益」とは、求めて得られるものではなく、己れの信心により、「自分は生かされている」「日々無事息災に暮らさせていただける」ことが御利益と願える心こそ、尊いのです。常に善根功徳に心掛け、泉の水が自然に湧き出づるが如く、幸福がついて廻るよう精進努力あらんことを。「積善の家には必ず余慶あり」
尚、虚空藏菩薩は、丑歳・寅歳生れの守り本尊と云われますが、この歳生れでないと御利益がないとよく聞きます。仏様に差別はありません。何歳生れでも平等であります。菩薩をおまいりする時は、報恩感謝(生かされている自分に感謝する)をし、「般若心経」「虚空藏菩薩陀羅尼経呪文」を唱え、普回向(めぐらす)をお唱え下さい。
普回向
願くばこの功徳を以て
赤べこ発祥の伝説
今から400余年ほど前の1611年に会津地方を襲った大地震でここ柳津も大被害を受け、虚空藏堂をはじめ僧舎・民家が倒壊し多くの死者が出ました。
その後の1617年に初めて虚空藏堂(本堂)は現在の巌上に建てられたのです。本堂再建に使われた大材は、只見川上流の村々からの寄進を受け、只見川を利用して運ばれましたが、ここから巌上に運ぶのに大変困り果てていたところ、仏のお導きか、どこからともなく力強そうな赤毛の牛の群れが現れ、大材運搬に苦労していた黒毛の牛を助け、見事虚空藏堂を建てることができたのです。
赤毛の牛の群れはなぜか虚空藏堂の完成を待たずにいずこへともなく姿を消したと言われ、後に大材を運んでくれた牛に感謝の気持ちと、ねぎらいをこめて建立されたのが開運「撫牛」であり、一生懸命手伝った赤毛の牛を「赤べこ」と呼び、忍耐と力強さが伝わりさらには福を運ぶ「赤べこ」として多くの人々に親しまれるようになりました。
これが当地柳津が「赤べこ発祥の地」と言われている由縁です。
その後の1617年に初めて虚空藏堂(本堂)は現在の巌上に建てられたのです。本堂再建に使われた大材は、只見川上流の村々からの寄進を受け、只見川を利用して運ばれましたが、ここから巌上に運ぶのに大変困り果てていたところ、仏のお導きか、どこからともなく力強そうな赤毛の牛の群れが現れ、大材運搬に苦労していた黒毛の牛を助け、見事虚空藏堂を建てることができたのです。
赤毛の牛の群れはなぜか虚空藏堂の完成を待たずにいずこへともなく姿を消したと言われ、後に大材を運んでくれた牛に感謝の気持ちと、ねぎらいをこめて建立されたのが開運「撫牛」であり、一生懸命手伝った赤毛の牛を「赤べこ」と呼び、忍耐と力強さが伝わりさらには福を運ぶ「赤べこ」として多くの人々に親しまれるようになりました。
これが当地柳津が「赤べこ発祥の地」と言われている由縁です。